2020年7月2日
難波宮跡公園(なにわにみやあと公園)
かつて、大阪に都がおかれた時もありました。
大阪歴史博物館を見学すると難波宮のことが良くわかります。
(下記 ウィキペディア一部抜粋)
前期難波宮
乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
後期難波宮
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
天武天皇12年(683年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。
その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇と左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。
最終的に翌天平17年1月1日(745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。
以前、大阪都構想が話題になったこともありますが、そこにはなぜか「都」の持つ意味が飛んでしまっているようです。
二重行政の無駄をなくすということは良いことかもしれませんが、そもそも「都」というのは天皇の住まう「皇居」があってこそ「都」なわけで、大阪に皇居をつくることが大前提の議論でなければなりません。
現在、皇居があるのは東京と京都です。
リスク分散という意味やインフラ整備の意味でも、大阪に「皇居」があっていいと思います。
ところで、人気ブログねずさんのひとりごとでは、「神功皇后と大阪都構想」と題して、神功皇后のご功績と大阪都構想について、わかりやすく説明されています。
https://nezu3344.com/blog-entry-4554.html#more
東京に集中した首都機能が地域に分散することは、とても良いインフラ整備になります。
これから、彼の国との依存症体質を改め、内需を高めるのに良いきっかけが「大阪都」の実現ではないでしょうか。
「財源はどうするの」なんて財務省の手先のようなことは聞かないでね。
日本は他国に借金のない国であり、他国からとやかく内政干渉をされる筋合いはないわけです。
国内でお金を回すことこそ、経済の発展になるわけです。
「お金をただ配るのではなく、自国で仕事(産業)をつくって、自国でとにかくお金をまわす」
これが出来るのが日本です。
自国で紙幣を発行でき、自給自足できる産業があるわけです。
仕事があれば、どれだけ助かる国民がいるでしょうか。
路上生活者さえも、みんな生き生きするではないでしょうか。
難波に遷都したとき、「財源はどうするの」と言っていたでしょうか。
IMF主導の財務省による「財源はどうするの錯覚作戦」には惑わされないように気を付けましょう。
一方、独立自治区をつくるような動きには要注意です。