2020年8月3日
難波高津宮跡
仁徳天皇(にんとくてんのう)といえば、最近世界遺産に登録された「仁徳天皇陵」を思いつきますが、「仁徳天皇は何をされた方ですか」と問われましても答えられる日本人が少ないのが悲しい現実です。
仁徳天皇はと言えば、「民のかまど」の物語と答えるのが戦前までの教育だったのでしょう。
その物語とは次のようなお話です。
人気ブログ「ねずさんのひとりごと」を運営する小名木善幸さんの記事を長文ですので省略して紹介します。
このお話をご覧いただき、あなたは何をお感じになられるでしょうか。
天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられたときのことです。
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、
貧しくて炊くものがないのではないか。
都がこうだから地方はなおひどいことであろう」
と、天皇は向こう三年の租税の免除を求められました。
三年経って天皇が三国峠の高台で炊煙が盛んに立つのをご覧になられたとき、かたわらの皇后に、
「朕はすでに富んだ。
嬉ばしいことだ」
と仰せになるのです。
「変なことを仰言いますね。
宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、
どうして富んだといえるのですか」
「よく聞けよ。
政事(まつりごと)は
民を本としなければならない。
その民が富んでいるのだから、
朕も富んだことになるのだ。」
仁徳天皇はニッコリされて、そう仰られました。
この話にはさらに続きがあります。
天皇の御言葉を聞いた諸侯が、
「皇宮が破れているのに民は富み、
いまでは道に物を置き忘れても、
拾っていく者すらないくらいです。
それでもなお税を納め
宮殿を修理させていただかないならば、
かえって私達が天罰を受けてしまいます」
と申し出るのですが、仁徳天皇は、引き続きさらに三年間税を献ずることをお聞き届けになられなかったのです。
こうして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課すことと宮殿の修理を御承認されました。
そのときの民の様子を日本書紀は次のように活写しています。
民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、
日夜をいとわず力を尽くして争い作る。
いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。
故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。
民衆は仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく誰に促されるわけでもなく、自ら進んで材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したのです。
それも昼夜をいとわず、力を尽くし、まるで争うように競い合って皇宮の修理にあたった書かれています。
このためいくばくもなく皇宮はきれいに直りました。
ただ減税してもらって良かったというだけでなく、民もまた報恩感謝の心を忘れていません。
仁徳天皇がここまで民に慕われたことには、かまどの煙の減税というだけではなく、実はもっと深い理由があります。
それが次の工事等です。
一 難波の堀江の開削
二 茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)
三 山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を築造。
四 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立。
五 和珥池(わにのいけ、奈良市)を築造。
六 横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造。
七 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し広大な田地を開拓。
これらが示すことは、仁徳天皇の時代にたくさんの土木工事が行われたということです。
ご感想は、いかがでしたでしょうか。
今の天皇は、政治を自らされることはされません。
(ただし、現在でも天皇が任命して初めて内閣総理大臣になります)
仁徳天皇はお名前の通り、民を思いやる徳の高い天皇たっだのだと思います。
仁徳天皇と皇后さまが、三国峠の高台で炊煙が盛んに立つのをご覧になられたその光景とは、どんな美しさだったのでしょうか。
想像してみてはいかがでしょうか。
夕暮れ時、一面に広がる田園風景、いくつもの藁ぶき屋根の民家といく筋もの白い炊煙、よろこびあふれる家族の笑顔まで想像したくなります。
仁徳天皇は民の生活が楽になったことを自分のことのように喜ばれています。
かたわらの皇后は、「皇居は宮垣が崩れ、屋根が破れているいるのにどうして・・・」と思っておられます。
ご夫婦の様子が目に浮かぶようですね。
日本は天皇をいただいた素晴らしい国なんだと改めて思います。
仁徳天皇がトップダウンでなされた租税免除も天災を防ぐための数々の土木工事も。。。
日本を取り戻せる日がくるのでしょうか。