2020年10月4日
堕天使ルシファー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC
善と悪について考えてみました。
私たちはどうしても善と悪を二極化したものととらえてしまいますが、それが社会を分断する結果になります。
例えば、泥棒は悪いことですが、泥棒する人がいるからセコムさんは商売が成り立ちます。
セコムさんは泥棒さんのお陰で存在できます。
火事は悪いことですが、火事があるから消防士も保険会社も建設会社も存在できます。
何が言いたいかと言いますと、一つの側面を見ていると生き方が窮屈になってしまうということです。
「絶対にこうでなければならない」という理想が強すぎると生き方考え方が窮屈になり苦しくなります。
人を許せることもできないし、自分を許すこともできない。
理想を求める努力家だけど、受け入れられないモノや人(自分を含め)を同時に自分の中に作ってしまう。
(鬱になる人や自殺する人が多いのはこれも原因)
一見、良いと見えることも悪い一面があるし、一見、悪く見えることも良い一面もある。
考え方次第で善にも悪にもなってしまいます。
泥棒や火事を良いことだと言っているわけではありません。
心の中、考え方は一つで善の部分も悪の部分の見出せるということです。
しかし、注意しなければならないことは、悪い行動をとれば法からも天からも裁かれるので自己責任です。
・お釈迦様やキリストの存在は完全なる善であっても、悪用すれば、教団をつくり私腹を肥やす手段に使えます。
・共産主義社会は善なる理想社会という一面がありますが、政治的に悪用すれば、革命の名のもとに人殺しや強奪であっても人の心を正当化されてしまいます。
・弱い者を助けることは間違いなく善ですが、政治的に悪用すれば、弱者と強者、少数派と多数派に国はたえず分断され内紛を招く種をつくります。
この世の中は善とか悪とかで分けることが本当にできるのでしょうか?
善と悪とは何なのでしょうか?
善も悪も含めすべての物を創造主はこの世に造られた。
私たちは創造主がつくられたものの中で生かされています。
では、私たちはどう考えれば良いのでしょうか。
それは、心次第であることに気づくことです。
誰でも良心は持っているけれど、良心が隠れてしまっていないかを絶えず自己チャックする。
良心が隠れてしまっていることに気付けない人は、悪魔により悪用されても気づけません。
人の心に悪用を持ち掛けるのは悪魔の存在です。
悪魔は巧みに誘惑をしてきます。
心が良心に満たされていれば悪魔の入り込む隙はありません。
悪魔も創造主が造ったものです。
悪魔は悪魔としての役割を果たしているだけ。
良心に満たされながら生きる人が増えれば、悪魔の居所が無くなってゆきます。
つまり、善か悪かで考えるのではなく、心が良心で満たされているのか、良心が隠れてしまっているのかで考える。
善か悪かは、見る側面で変わってしまう。
そんな幻想に惑わされてはいけません。
憎しみや悲しみで心を痛めてはいけません。
それに比べ、良心は不変であり誰の心にも存在しています。
自分の行動は良心が決める。
そうすれば、人も社会も自分もゆるせるようになるし、生き方が楽になる。
すべて自分次第であり、とった行動は自己責任です。
悪魔は人類にとって不必要になり、他の星へと退散するでしょう。
それがこれから人類が進むべき方向ではないでしょうか。